サラエボの新聞(デイリーavaz)にヤドランカのインタビューが掲載!【2013年1月20日】


2013年1月20日のボスニアの新聞(デイリーavaz)に掲載された記事です。
ヤドランカはバニャルカ(ボスニア)にある医療施設で治療の合間にインタビューを受けました。

彼女は2009年秋頃から脚に異常を感じ運動ニューロン疾患と診断されました。

ヤドランカ『病気は怖いけれど 麻痺がお腹より上に進行しないよう神様に祈っています。毎日 歩行器を使ってリハビリしています』

彼女は仕事にも前向きでRTRS(セルビア人共和国ラジオテレビ局)で音楽プロデューサーとしても活躍していること、日本のミュージシャンとのことを語っています。

ヤドランカ『テレビ局へはめったに行きませんが、若いミュージシャンとの交流はこの部屋でしています。楽器も機材もすべて備えていますし。 20年以上日本を拠点に仕事をし、2011年ボスニアに戻ったけれど、東京の音楽仲間ともずっと関係が続いています。来年日本から仲 間のミュージシャンたちが来る予定です。その時はバニャルカ サラエボ ザグレブで彼らのステージを作りたい。私は国際的な文化交流が最も大事だと思っています』

ヤドランカは1950年7月サラエボで生まれました。母リュビッツァが小学校や高校の教師として旧ユーゴ内で転勤を繰り返した為、彼女もトランクを持って歩く人生でした。

ヤドランカ『引っ越しも多く、母は体が強くなかったので、私は小包みたいにアドリア海の親戚の家にたびたび送られました。祖母のニコリーナや叔父や叔母たちにも育てられました。私は子どもの頃からいろんな環境に慣れなければならなかったし、いい子にしていなければならなかった。その経験はおとなになってプラスになりました。今、子ども時代を懐かしく思います』

父スラブコは母と離婚した後、再婚しヤドランカには二人の妹ができました。母違いの妹たちとは8歳の時知り合いそれ以来、交流が続いていました。(*二人の妹は近年交通事故や病気で逝去)

ヤドランカ『母もその後再婚しましたが、再婚相手である義理の父は現在、バニャルカ近くの街ラクターシに住んでいます。私が今バニャルカに滞在することになり義父との縁を感じています』

ヤドランカは音楽を志してからのことを語っています。

ヤドランカ『サラエボの芸術高校に入学しましたが ここは絵画より音楽を学ぶ人が多かったです。当時Index(旧ユーゴで当時有名なバンド)の全盛期で彼らを見て音楽を志しました。私のキャリアはKombo6というバンドが始まりです。1968年にソロで歌い始めました。その後ドイツでも経験を重ね、憧れのIndexとも共演し自分の歌を作曲し始めました。ドイツでは叔父のバンドで歌手として歌ってました。当時はベトナム戦争中で、夜はアメリカ基地でアメリカの兵士の為に歌っていましたが、昼は反戦デモに参加していました』

ヤドランカはシンガーソングライターであると同時に画家でもあります。

ヤドランカ『サラエボ芸術大学を卒業しました。仕事としては音楽がメインになりアートは音楽の影になってますが。私はいつも音楽とアートの二つの椅子に座ってきました』

大学卒業後、彼女は様々なキャリアを重ね、1988年から震災の起きた2011年まで、日本に住みました。

ヤドランカ『日本では東芝EMIで最初のアルバムを出し、たくさんのコンサートをしたりしました。絵の個展も二年おきに開きました。それはきっと私がボスニア・ヘルツェゴビナでの時間を取り戻すためのものだったような気がします』

補足:ヤドランカが内戦前にサラエボに持っていた自宅は内戦で帰国できないうちに他人のものになってしまいました。本人の知らない間のことで申請して返還される法的期間も過ぎてしまいました。
友人たちの支援もあり、ボスニア政府から国民的歌手であり文化功労者であるヤドランカにサラエボに新たな家が用意されたのですが、治療の為、現在セルビア人共和国(注:連邦国家であるボスニア・ヘルツェゴヴィナの構成体のひとつ。スルプスカ共和国とも言いベオグラードを首都とするセルビア共和国とは別)のバニャルカにある医療施設に滞在しています。


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